関心の遍歴
宗教学専修に進んだ頃は現代のカトリック教会について興味があった。また、山口輝臣先生の授業を駒場でとっていたので、国家神道についての議論にも注目していた。神道に限定されない戦時期の日本の諸宗教の活動に興味があって、当時のカトリック教会、カトリック信者の動きにも関心を持っていた。
そんなこんなで近現代に関心を持ったまま、宗教学で開講されるいろんな授業やイタリア文学などの文学部の他の専修の授業もいろいろ受けていた。卒論をどんなテーマで書くかも決めていないままだったので、まさにつまみ食いの連続である。
いろんなことをつまみ食いしてきたのだが、卒論を書く段になっていよいよテーマを決めなければならなくなった。ラテン語の初級文法を終わらせた程度だったのに、ラテン語を読んで卒論書ければカッコいいなという愚にもつかぬ理由から古代キリスト教で何か書こうとした。三位一体論とかキリスト論論争などは自分には敷居が高く感じられた一方で、聖人崇敬という人々の生きられた現象に興味を感じたので、そういう領域にアプローチしていくことにした。卒論では死者を聖人の記念聖堂の近くに埋葬することについてアウグスティヌスがどのように考えていたかについて扱った。4年生になってかなり急にテーマを決めたわりに、卒論はうまくいったのかもしれない。そのまま修士に進んでいる。
前記のような興味関心を持ってこの時代に注目していたが、大きな発見もあった。三位一体論やキリスト論、聖体論などの神学的議論は人々の実践と距離がある抽象的な思惟にすぎないと思っていたが、これらの議論が人々の生きられた現実に深く反映されたものでもあることがわかってきた。
もう一つ大きな発見があった。古代のことを学んでいるうち、教会の近代化という印象しかなかった第二バチカン公会議が実は古代中世のキリスト教研究と密接な関わりがあることを知った。そのため巡り巡って今は現代のキリスト教のことについてもいろいろ調べたりしている。もし博士課程に進み直すことがあるとすれば、20世紀のカトリック神学についての研究がしたいと思っている。(フランス語とドイツ語もっとやらないと...)
人文学一般にそうかもしれないが、特に宗教学は自らの足元を掘り返すようなことをする。なんと言っても宗教学に入って最初に学ぶことは「宗教概念批判」で自分の持ってる宗教概念を壊すところから始まる。古代の研究をするにせよ、現代のキリスト教について考えるにせよ、広く「近代性」というものを問い直す、あるいはそれに自覚的になることが求められていると感じている。だから宗教学研究室にいてよかったと感じている。
終わり。
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