『福音と社会』谷口幸紀氏の書評に関する抗議①
私を含む3人で『福音と社会』におけるヘイト記事に対して抗議文を作成し、編集部に送付した。その抗議文をこちらに公開する。なお署名はここでは公開しないことにする。
同内容のpdf形式はこちらで確認できる。
主の御公現おめでとうございます。
突然のご連絡失礼致します。今回は貴社から出版されております『福音と社会』323号、324号における谷口氏の論稿、谷ロ幸紀「【書評】『LGBTとキリスト教—— 20人のストーリー』(監修・平良愛香/日本基督教団出版局・刊)(前)」『福音と社会』2022年、323号、90–99頁(以下、記事①とする)および、谷ロ幸紀「【書評】『LGBTとキリスト教—— 20人のストーリー』(監修・平良愛香/日本基督教団出版局・刊)(中)」『福音と社会』2022年、324号、189–197頁(以下、記事②とする)に関し、ご質問させて頂きたくご連絡致しました。
私たちは東京教区に所属する信徒であり、当該論稿の執筆者である谷口氏の母校、六甲学院の卒業生でもあります。ひとりのカトリック信者として、また谷口氏の後輩として、この論稿は看過できるものではないと思い、以下のように意見させて頂きたく思います。
はじめに述べておきたいのは、私たちは皆性的マイノリティではない、ヘテロセクシャルの男性であるという点です。つまりこの意見は谷口氏のいう「闇の巨大な霊的力」によるものではなく、社会を構成する一市民としての動機に裏付けられているということです。また、それはマイノリティの声を代弁するということでもありません。性的マイノリティの問題は当事者だけの問題ではなく、性別とジェンダーによって自身の意識に関わらずとも何処かに分類されてしまう人類全体の問題であるということを述べておきたいと思います。
性的マイノリティの問題に関する議論を谷口氏は「“ジェンダー先進国に追従するのが進んだ自治体だ”とする風潮に流されているだけ」(記事②190頁下段)と述べておられますが、これは日本における社会運動の蓄積に関して無知であることを露呈する表現であると言わざるを得ません。日本社会においてジェンダーの問題が議論されるようになるまで、どれほど多くの努力が為されてきたかを見れば、ただただ流行や風潮を追いかけただけだということが言えないのは明らかです。そこには性的マイノリティの人々が受けてきた苦しみに、同じ社会を構成する当事者として多くの人々が応えた過程が見えます。それらの努力をこのように表現することは、彼らの運動と努力、そして何より彼ら全体の苦しみそのものをなかったことにする、修正主義的な態度と言えます。
谷口氏は「〈不都合〉なケース」(記事①95頁など)として幾つかの具体例を挙げていますが、ケースとご本人も述べられているのがこの部分の問題性を端的に表していると考えます。すなわち、ケースというのはあくまで個別具体的な「事例」なのであり、これらの極端な「事例」を一般化して性的マイノリティ全体に一般化する論理は非常に危険です。例えば、包丁を使った殺人事件が起こったことを理由に包丁の販売が禁止されるでしょうか。ここで、それは殺人事件を起こした犯人の問題であって包丁そのものが問題の本質ではないのと全く同様に、性的マイノリティの問題においても、それを悪用する人がもし仮にいるのであれば、それはその人個人の内面に問題の本質は存在しているのです。そういった全体から見れば数%にも満たない「事例」を取り上げ一般化する行為は全く理性的とは言えません。それは自分にとって異質と感じられるものを排除したいと思う気持ち、ヘイト、差別感情なのではないでしょうか。フェニキアの女に出会ったイエスは当初は異邦人に対して差別的と解釈されうる発言をしながらも、他者に開かれた姿を示しました(マルコ7: 24–30)。私たちも主イエスに倣って、異質に感じてしまったとしても他者と向き合う知恵と勇気を持ちたいものです。
以上のように、この論稿には看過できない内容が盛り込まれており、一信者としてこのような論稿が貴社から出版されたことは非常に遺憾です。異質に感じられた存在を排除しようとする本論稿の態度はイエスの聖心に適うものなのでしょうか。従って以下の点について回答をお願いしたいと思います。
一点目、どのような経緯で谷口氏へ書評の依頼がなされたのか、その過程を明らかにして頂きたく思います。このように性的マイノリティへのヘイト感情をもつと言わざるを得ない人物にLGBTQについて扱った書物への書評を依頼したのは編集部の意図だったのでしょうか。それとも、編集部の思惑に反して谷口氏の私見が展開されたのでしょうか。いずれにしてもこの内容で出版を行ったという点についても、編集部内でどのような議論があったのかお伺いします。
二点目、今後この論稿に関して、もう一方の意見を取り入れた論稿を掲載する予定や、今回の出版行為に対する謝罪文の掲載予定はありますでしょうか。
以上、回答をお待ちしております。よろしくお願い致します。
神の独り子、仲保者、私たちの主イエス・キリストの御公現の祭日に
(私含む3人の署名 Σ, Ἰ, Π)
本件に関して問い合わせは以下のページよりお願いします。
問題含みの箇所があまりに多すぎることから、一つ一つ引用して反駁を加えると文書が長大になってしまう恐れがあった。編集部にこちらの主張の要点を伝えるためにもこのような形式となり、該当記事の内容を知らない人には分かりにくいものとなってしまった。教会やキリスト教系書店、キリスト教系大学の図書館で読めるかもしれないので、もしご興味があれば探していただきたい。ただし当該記事は下に紹介するツイートにもあるように【閲覧注意】。
【閲覧注意】杉田水脈もビックリの想像をはるかに凌ぐヒドさ。カトリック社会問題研究所発行の『福音と社会』324号。「前」「中」「後」3号連載の2回目。書き手は「カトリック司祭」の谷口幸紀氏。この続きが次号にも載るという地獄。#LGBTとキリスト教#福音と社会#性的マイノリティ pic.twitter.com/kJEKAEPBDw
— 松谷信司「キリスト新聞」編集長|いのフェスチャンネル ✝🌈 (@macchan1109) December 1, 2022
載せるか悩ましいところではあるが、2023年2月22日に執筆者がブログに書評全体を公開した。気分を害する可能性があるので閲覧には十分注意してほしい。
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/f581608e5395be5e4ff6f78493dbac73
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/bfd4ecd62bc46a4ca352a7096d55c360
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/ee5d23c0a72c888933825f31efa9acff
これで疑いは晴れるという趣旨の発言が見られるが、そんなことはないだろう。
ついでにこの記事を執筆したカトリック司祭の谷口氏(ここではあえてカトリックの司祭について用いられる「師」という敬称は用いない)は「新求道共同体の道」と呼ばれる団体に所属している司祭である。問題となった記事が出たときに名前を調べたら、この本が出てきて出身高校が六甲学院であることを知った。
この記事でも谷口氏の名前が確認できる。
「新求道共同体の道」は聖座に逆らう(教会法的に)非合法の集団ではない。ただ、その独特さから高松教区内(四国4県の司牧を担当する教区)に確執を起こしてしまった過去がある。そのため当時の深堀司教から後任として溝部司教が赴任された。その時の経緯を説明された溝部司教の講話を読むことができる。自分が高校生の時に京都でお過ごしの頃お会いしたことがあるが、楽しいお話をなさる笑顔の司教様だったことを記憶している。
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