desiderium sinus cordis
このブログの表題、ドメインにある "desiderium sinus cordis" 「心を深くするのはあこがれである」という一節はアウグスティヌス『ヨハネによる福音書講解』40.10に由来している。
こちらはボッティチェッリの有名な《書斎の中の聖アウグスティヌス》
この箇所全体はこのようになっている。
「あなたがた愛する会衆に対しわたしは何と言うべきであろうか。ただ心が、どのようにであれ、あの言い表しがたい栄光を求めてくれたらよいのに。ただわたしたちが自分の寄留を嘆きのうちに得し、この世を愛することなく、わたしたちを召してくださったかたに向かい、精神で絶えず尋ねてほしい。 心を深くするのは憧憬である。もしわたしたちが可能なかぎり憧憬を広げていくならば、その深みに達するであろう。 わたしたちと共にあっても、民の集会も、秘蹟の執行も、聖なる洗礼も、神賛美の歌も、わたしたちの討論そのものも導いて、 この憧憬が単に蒔かれ発芽するだけでなく、目が見ず耳が聞かず、人の心に思い浮びもしなかったものを摂取しうるほどの取得能力の大きさにまで成長されるように働いている。」
金子晴男訳『アウグスティヌス著作集 第24巻』(教文館、1993年)、218ー9頁。
(一部改訳)
ピーター・ブラウン『アウグスティヌス伝』にもこうある。
新たな色調がアウグスティヌスの人生を覆うようになってきた。彼は、自分の現実のあり方においては不完全な存在のままに留まるように運命づけられていることを認識する人間であった。彼が最も情熱をこめて望んできたものは単なる希望以上のものではなくなり、この世の生をはるかに超えてすべての緊張が最終的に解かれるときまで延期されるのである。 そのように考えない人物は、道徳的に鈍いか非現実の空論家であると彼は感じている。人間ができることはと言えば、この手に入らない完成を「あこがれること」、その喪失を心に刻み、それを切望することだけである。「心を深くするのはあこがれである Desiderium sinus cordis」。これが長く確立していた完成という理想の終焉である。 アウグスティヌスは、いくつかのキリスト教会のモザイクや異教の賢者の彫像にあってそこから私たちを見つめている超人の精神集中した平穏さには決して到達しなかった。もし「ロマンチック」ということが、自分が求めている十全さを否定する存在に自分が囚われている、と人間が鋭く意識することを意味し、自分がなにか他のものに向かう緊張によって、また、信仰や希望や思慕に向かう能力によって定められていると感じることを意味し、自分が隔たりながらも、いつも「呻き求める」愛を保つことによって常に自分に現前するような、かの国を求めてさまようさすらい人であると考えることを意味するならば、アウグスティヌスは紛れもなくロマンチックな人間であった。
ピーター・ブラウン『アウグスティヌス伝』出村和彦訳(教文館、2004年)、162–3頁。
アウグスティヌスに関する研究や研究書は数え切れぬほどあるが、出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』(岩波書店、2017年)は入門書として読みやすい。
最も読まれているアウグスティヌスの伝記的研究は先にも挙げたピーター・ブラウン『アウグスティヌス伝』全2巻、出村和彦訳(教文館、2004年)だろう。1967年初版だが2000年に回顧録と合わせて再版され、邦訳はこの2000年の第2版を底本として翻訳されている。
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